2004年07月24日

#2893 ミロリイ1984年7月日記 (上)


1984年6月30日(土)


明け方、芸大のKちゃん、ビデオカメラを取りにきて貸す。
そのまま寝ずに朝一で新宿の東京電力に電気代を払いに行く。
その足で大学へ。夕方までビデオ撮影。(H、C子、Kの作品の手伝い)
帰り、国立に寄る。ビリヤード屋でE、U、T田とおちあい、四つ球。
E宅に泊まる。明け方まで駄弁る。ビル・ヴィオラの砂漠の蜃気楼のビデオみたいな自然現象を、撮りたいというような話を。


1984年7月1日(日)


8時就寝、16時起床。Eと国立へ。LOFTHOUSEでKとおちあい、K宅。
24時帰宅。S輔、沙羅、T嬢がいてまたポーカーをやっている。参加せず。
小林久三「雨の動物園」読了。


1984年7月2日(月)


午後から大学。萩原共通W。サントリーのCMを観ながらコピーをつける実習。くだらねぇ。ひどい授業だ。
佐藤忠男「長谷川伸論」読了。
佐藤忠男は長谷川伸の作品の特質を、現代の人がもう忘れてしまっている明治・大正期くらいまでの庶民の精神史の発露、と分析している。そのころの大衆が当たり前のように楽しんでいた通俗的な娯楽、流行りのものの中に芸術的価値を有す「本物」がある、と。職工や商人の世界に見るべきものがあるのはわかるが、ちょっと佐藤忠男特有の語り口が気になるんだよな。
夜中、朱鷺ちゃんが来る。パンタロンのテープをダビング・加工。コネがあってロンドンのマッドネスの事務所に送るんだって。ほんとかよ。ロンドンデビューするつもりか。


1984年7月3日(火)


夕方、アテネフランセ『女と男のいる舗道』(1962年 ジャン・リュック・ゴダール)。
松波路美目撃。声はかけず。気がつかないフリをした。


1984年7月4日(水)


東大駒場、蓮實重彦映像論。
そのあとKちゃんと渋谷。


1984年7月5日(木)


朝から大学。世界美術史U、中山公男。
帰りに新宿。昭和館で『顔役』(1965年 石井輝男)『網走番外地・悪への挑戦』(1967年 石井輝男)『緋牡丹博徒・お竜参上』(1970年 加藤泰)
高倉健ってやっぱ耳がでかいよ。「お竜参上」はシリーズ最高傑作だよね。作品の強度がただごとでない。
Hさん泊まりに来る。


1984年7月6日(金)


朝、森本毅郎の「さわやかワイド」にReveR、ビデオ出演。Hさんといっしょに観る。南伸坊にこきおろされる。Hさん憤慨。
T帰省。俺は原宿へ髪を切りに。
その帰り、高田馬場東映パラス『気狂いピエロ』(1965年 ジャン・リュック・ゴダール)
2回目だが、前回観たときに10分近くも眠っていたことに気づいた。アンナ・カリーナがベトナム人風のメイクをして「ミャアミャア」言って寸劇するシーンあたり。最初にフェルディナンが着くのは誰の家かは判明していない。しかし、寸劇直後より、物語は語らされているかのように疾走を始める。表層にて滑走するメタファ、その安直さはB級映画へのオマージュ。ベティガーやラングを想起。感性的にはカリーナの登場部分で「〜の姪」と紹介され、すました16〜7歳の令嬢のイメージだが、ベルモンドが彼女を送るため車に乗せ芝居をするうちにメタモルフォセが始まり、ノーカットの数分の2ショットのうちにみるみる2人は5年前愛人関係にあったことがわかっていく。カリーナの年齢がぐんぐん上昇していく印象のところは何度見ても素晴らしいと思った。1時間50分は、しかし、長い。島に行ってからは特に退屈した。いろんなイメージを喚起する映画ではある。いくつものレヴェルで映画を楽しむことができる。
帰り、高円寺の沙羅ちゃんち。そこから中野ブロードウェイの非合法ポーカーゲーム屋へ。Sがプロのばくち打ちとポーカーをするのをはたから見物。しかし、こんな店よく許されているなぁ。


1984年7月7日(土)


夏休み前、最後の授業。
帰り、打ち上げ。


1984年7月8日(日)


一日中、家。夕方からいつものメンバーがやってきて夜っぴでポーカー。5000円負ける。


1984年7月9日(月)


20時、六本木カプッチョでEとUと待ち合わせ。
22時、俳優座シネマテンでブルータス座『マルクス二丁拳銃』と『マルクス・デパート騒動』の2本立て。終電がなくなったので歩いて帰る。2人泊まる。
(つづく)
posted by mogumogu at 19:45| Comment(8) | TrackBack(1) | 身辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月19日

#2878 Hyppolyte Taine (1828-1893)



大学時代、中山公男先生の西洋美術史の授業でもっとも印象に残っている人。
フランスの美術史家。文学より転ズル。

"Philosophie de l'art"
一人の作家を、その作家の環境、時代性(実証的アプローチ)、カタログ作製(Inventaire Catalogue)、財産目録などから研究した。
中世より連綿と続くフランス王侯貴族の財産目録の記録方法が以後のフランスやイギリスの美術史学の礎となった。
その方法論として―――
Catalouge reasonne(類別全作品目録)。一人の画家に対して数人の美術史家が作る目録。
それは日本人がイメージする「カタログ」の概念とは大きく異なる。現在にいたるまでヨーロッパでは新刊をおろすことよりも展覧会のカタログを監修することのほうに価値と評価が置かれる傾向が強い。

≪題名≫
たとえば「印象派」の先駆的作品として史上もっとも有名なタブローのひとつ、クロード・モネの『印象・日の出』がカタログに監修されるまでには気の遠くなるような多くの研究と解釈・議論などを経て、その定説を醸成していった。『印象・日の出』は『印象・日の入り』であったかもしれなかった、という。絵の題名でさえ、人によって解釈の誤差が生じ、美術史家が鑑定していく際の困難を与える。

≪来歴≫
シャガールやキリコなどの作品において見られる例として実作者自身が判定するのではなく遺族が鑑定する場合に、しばしば本人作か否かの承諾が食い違うケースがまま、あった。

≪署名≫
フェルメールの作品に顕著なのだが、作品完成当時のネームバリューの関係で本人の名前とは別の名前を署名するケースがあった。

その他≪素材≫≪大きさ≫≪年記≫≪記名≫≪展覧会歴≫≪文献≫など。
19世紀は印刷技術が進展しておらず図版が悪かったので著述が非常に重要であったのである。つまり絵画を言語によって著述するということであるからそれがどれほど困難な作業を伴うものかは想像するにあまりあるだろう。そしてついにはiconographie、iconologieへ展開していくのである。

2004年07月15日

#2879 WATERFALL POSTCARD

1990年代のいつだったか、明治通りのキリンビールのギャラリーに横尾忠則の「滝」の絵葉書を集めた展覧会を観に行った。
何万枚もの滝の絵葉書をありとあらゆる壁いっぱいに埋め尽くすように貼り付けてあるインスタレーションだったんだけど、かなり刺激を受けたの覚えている。
1枚1枚は単なる滝の絵葉書なんだけどアッサンブラージュして並べると、まるで滝壷のすぐ近くにいるかのような錯覚に陥ったの。マイナスイオンが出まくりっていうか。あれは不思議な体験だった。
以来、滝に気を払うようになった。あちこちの滝に行っては写真やビデオ、録音などをする「滝フリーク」になってしまったの。

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